京都と大阪の境に位置し遊郭の面影が残る橋本。今は閑静な住宅街といった様子ですが、最盛期には「不夜城」と称されるほど沢山の人が行き交った場所でした。
当時の情景を想像しながら街を歩くだけでも充分楽しいのですが、実はココ全国的にも珍しく合計4つの旧妓楼内部が公開されています。中でも、大徳(加島楼)は修繕途中の状態で公開されており、大正末期から昭和初期の趣きを閉じ込めた雰囲気があります。大徳(旧加島楼)を中心に橋本遊廓の詳しい様子をお伝えします。

大徳(旧加島楼)の見学は廃屋状態の内部を土足で歩きます。建物には電気が通っていない場所が多いため非常に暗いです。訪問の際は強力な懐中電灯の持参とマスクの着用をおすすめします。
取り壊しを免れた希少な遊廓建築、大徳(加島楼)について

1958年(昭和33)売春防止法施行により、全国的に遊郭建築の多くは旅館業や飲食業へ業態を変化しました。大徳(加島楼)も妓楼から「御座敷と洋食スタンド大徳」→「喫茶・スナックダイトク」へと営業形態を変えますが、平成期に廃墟化。橋本遊郭のみならず、遊郭建築の多くは持ち主の高齢化や建物の老朽化などにより取り壊しが進んでいます。大徳も取り壊し寸前だった所、今のオーナーに買い取られ貴重な姿を今に留めています。
喫茶スナック時代のダイトクの様子

平成に喫茶スナックとして営業していた頃は、上写真左のアルミサッシ性の扉が入り口でした。今はマスキングされていますが、扉上部に「喫茶 スナック ダイトク」と記されていて、妓楼として活躍していた頃に娼妓(ここで働いた女性)たちの待機場だったであろう部屋を飲食スペースとして使用していました。

飲食店を営業する際に必要となる、食品衛生責任者講習の修了書が建物に残っています。責任者の名前が「大徳」ではないものの、大正10年11月17日生「◯徳 ◯◯子」と記されているので大徳という屋号は苗字からとったモノなのでしょうか。(名前は伏せています)

加島楼から大徳へ
1937年(昭和 12 )に橋本遊廓 50 周年を記念して発行された『橋本遊廓沿革誌』によれば、この建物は昭和 1937年(昭和12 )に大阪の花街で成功し橋本でも遊廓経営を始めた小川知加が経営した加島楼と記されています。小川知加が加島楼をいつ売却したかは不明ですが、昭和27年頃の住宅地図には「大徳」と店名が変わっています。

遊廓と聞くと江戸時代をイメージしますが、橋本遊廓に残る建物は大正末期から昭和初期に建てられたものが多いです。
大徳内部の様子
大徳は2階建てです。1階は客が出入りする玄関と楼主家族が生活する空間が位置し、奥にはダンスホールが存在します。2階は娼妓が客と過ごす部屋と娼妓の生活空間になっていました。
玄関に佇む裸婦のステンドグラスと豪華なタイル

大徳の玄関に入るとまず驚くのが、裸婦が描かれたステンドグラス。元々は一番上のステンドグラスより下は白い壁で塞がれていましたが、建物内部の遺留品から見つけた物を現在のオーナーがはめ込みました。後付けとは思えないほど馴染んでいて、台を置けば祭壇が出来上がりそうなほど美しく神聖ささえ漂っています。

正面には丸窓や欄間に松や帆掛け船の透かし彫刻があり、床や壁面にはシックなタイルが施されています。天井も独特な色合いの格子柄で装飾され、圧倒的な意匠が光ります。
楽団レリーフの存在感がえげつないダンスホール

一階の奥、大谷川沿いの部屋にダンスホールが存在します。この空間を彩るのは、色とりどりのガラス窓と小鳥や植物が描かれた丸窓のステンドグラス。光が差し込むたびに、その色彩がゆらゆらと可愛らしく床に反射していました。そして、最も存在感を放つのが壁面の楽団レリーフ。アフリカにある民芸品のような独特のタッチで音楽を奏でる楽団員の姿が描かれており、そのイキイキとした表情に不思議な魅力が宿っています。
レリーフにはコントラバス、ハープ、チェロ、フルート、バイオリンの奏者が描かれています。



橋本遊廓の主な客層は若年労働者

当時の遊廓は所轄警察署の鑑札(許可証)を受け厳しく管理されました。遊廓の経営者は客の住所や年齢・職業・担当した娼妓等を記載した遊客帳をもとに、経営状況等を申告する必要があり、当時の『京都府統計』『警察統計報告』(内務省警保局) 、遊客帳、娼妓名簿等にその記録が残されています。
記録によれば、橋本遊廓の主な客層は大阪在住の若年労働者。橋本遊廓の近くに軍需工場があったことや近隣の中書島遊廓や枚方の桜新地と比べて1時間の花代(遊興費)が最も安かったことが理由に挙げられます。

ダンスホール文化は1920年〜1930年に花開き、モダンな若者たちに大人気の遊びでした。橋本遊廓の若年層の客層を踏まえ、大徳(加島楼)にダンスホールが造られたのかもしれませんね。
大阪ではダンスホールの営業が禁止されていた
ダンスホールは公に男女が触れ合う新しい文化だったことから、国からの規則が非常に厳しく、1927年(昭和2)には全国に先立ち、大阪でダンスホールの営業が全面禁止となっていました。橋本はぎりぎり京都に位置しているため、大阪からダンスホールを求める客もいたのではないでしょうか。


川へ繋がる地下階段も存在する


ダンスホールの脇には川へと繋がる地下階段があります。橋本周辺は水運や交通の要所として栄え、橋本遊廓のさらに向かいには流域面積が全国7位の淀川が流れています。船で乗り入れて、ダンスホールで遊ぶ客がいたのかもしれません。


一階奥の広い和室は楼主家族の部屋

楼閣、一階の奥は楼主の家族が過ごす部屋でした。楼主家族の生活スペースに娼妓が立ち入ることはなく楼主家族との居住空間は区切られていました。



2階は娼妓と客が過ごす部屋、娼妓の生活空間が広がる

1階のモダンな空間とは一転し2階は寺院を思わせるようなシックな造りとなっています。娼妓たちが客と過ごすための部屋、娼妓たちが生活をする場を含め、合計14部屋が当時の面影を残しています。


遊廓時代そのままの生活痕跡が残る建物を見学できるのは全国を探してもここ大徳だけでしょう。
客と娼妓が過ごす部屋と娼妓の生活空間の様子

表通りに面した部屋の様子です。光が差して明るく、格子状の窓や地面に接して設けられた袋戸棚など旅館の一室のような空間ですね。

橋本遊廓に存在する妓楼の多くは客が建物に入り待機スペースで娼妓を確認する陰店式に適した造りになっています。下の写真の場所は階段を登ってすぐの場所に位置していることから、おそらく客が選んだ娼妓を遣り手に告げるための待合スペースとして使用されました。

建物の奥、北側は全体的に暗い印象です。部屋ごとに収納や広さが異なっており、娼妓の稼ぎによって割り当てられる部屋が変わったのかもしれません。





洋室も存在する

建物の奥にカラーガラスが嵌め込まれた洋室が存在します。他の部屋と比べると、少し手狭な間取りですがベッドが備えられていたり、装飾された丸窓が施されていたりとかなり豪華な造り。
部屋が狭いことに加え、奥にはレコードプレイヤーが残されていたり、戦前から戦後を通じて活躍した昭和を代表する女優「高峰秀子」のブロマイドが貼られていたりすることから、この洋室は客と過ごす空間ではなく娼妓が生活した個室だったのではないでしょうか。




娼妓のリアル「洗滌室(洗浄室)」の様子


2階のトイレスペースに「洗滌室(洗浄室)」と記された個室があります。これは、いわゆる「ビデ」で娼妓が客の体液を洗い流し、感染症や妊娠を予防するための空間でした。遊廓と聞くと煌びやかな女性が働くイメージをもちますが、実際は病気と隣り合わせの劣悪な労働状況で働いた女性の姿を突きつけます。

『全国遊廓案内』には「橋本遊廓の娼妓は、中国・四国・九州方面からが多い」とあります。1929年(昭和4)の世界恐慌を背景に、農村地は深刻な経済的困窮に陥りました。実家の借金を肩代わりしたり、身売りしたりと様々な事情で橋本遊廓に流れ着いた女性たち。生活の痕跡や遺構からその想いが偲ばれます。

洗浄室が残る建物はかなり珍しい。奈良県の大和郡山市の町家物語館(旧川本楼)や飛田新地の鯛よしにも洗浄室の遺構が残りますが、コンクリートで塞がれていたり、便器が取り外されていたりします。
注意、底が抜けるかも
建物全体が修繕途中ということもあり、廃屋状態の内部を土足で歩きます。チリぼこりが漂っており、訪問の際は汚れてもよい服の準備やマスクの持参がおすすめです。

特に建物東側(京都側)の床が劣化しており、やわやわ。体重を少しずつかけながらゆっくりと進みましょう。
橋本遊廓で見学できるその他の妓楼

橋本遊廓は86軒の妓楼が軒を連ねる大規模な花街でした。1938年(昭和13 )には1年間の客数が51万6898 人を記録。平均すると1日に1500人が通りを歩いていたことになります。今や閑静な住宅街といった様子と比べると考えられない光景です。歌舞練場も存在しましたが、令和2年に解体。遊廓の名残は徐々に薄れています。

そんな中、当時の遺構を残し旅館や茶楼として営業・一般公開しているのが橋本の香(旧三枡楼)、美香茶楼(旧第二友栄楼)そして修繕途中の大徳です。これら3つの建物のオーナーは全て同じ。オーナーは自宅や資産を売却しこれらの建物を購入し、リノベーションをしています。他にも橋本遊廓には多津美旅館が残っており、現在も営業中(大徳等のオーナーとは別の方)。
以下橋本の香(旧三枡楼)、美香茶楼(旧第二友栄楼)をご紹介します。
橋本の香(旧三枡楼)

2020年にオープンした橋本の香(旧三枡楼)。遊廓時代の意匠を残しながら、現在は旅館や漢方エステ火療のサービスを提供しています。三桝楼は当時、橋本遊廓内で1、2を争う大店で美しいステンドグラスや豪華な欄間などが至る所に施されています。見学のみも可能です。





美香茶楼(旧第二友栄楼)

クラウドファンディングで茶楼に生まれ変わった美香茶楼(旧第二友栄楼)。大徳の隣に位置しています。玄関右の空間は娼妓達が客と顔を合わせるための空間です。旧第二友栄楼は階段を上がると、途中の踊り場で2手に分かれているのが特徴的。木材の艶が大変美しい。こちらも見学のみの利用でもOK。






約100年前のコンドーム自動販売機

美香茶楼(旧第二友栄楼)の階段を登り、通りに面した部屋側の柱に産児調節・性病予防サック自動販売機が残っています。サックとはコンドームを指します。こちらも大変珍しい物です。
コイン投入口に十銭白銅とあります。十銭白銅貨は、1920年(大正九)から1932年(昭和七年)に発行されました。つまり、この自販機は約100年前の物であることがわかります。
側部には「十銭デ最高級スキン」「貴下ノ衛生保健ノ為ニ」とあります。 1930年(昭和3)発行の『全国遊廓案内』によると橋本遊廓は「1時間遊びが1円」とあります。10銭が10枚で1円だったので、このコンドーム10枚で1時間遊べました。
上部には「アマルスキン」と記されています。アマルスキンとは羊などの腸を用いたコンドームです。
最後までご覧いただきありがとうございました。
問い合わせ先
見学の際は事前の予約をおすすめします。
電話番号 090-8375-8761
公式Xアカウント
アクセス
- 〒614-8342 八幡市橋本小金川2
詳しい場所をGoogleマップで確認する - 駐車場:有り(問い合わせの際、車での訪問だと伝えると良いです。)
- 料金:大徳の見学2000円。橋本の香(旧三枡楼)、美香茶楼(旧第二友栄楼)は各1000円です。3つあわせての見学だと割引が効き3000円。
参考資料
・石原傳四郎『橋本遊廓沿革誌』1937 年、京都府立京都学・歴彩館蔵
・『全国遊廓案内』,日本遊覧社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1453000
・小針侑起『遊廓・花柳界・ダンスホール・カフェーの近代史』,ランプの本 2022
・竹中, 友里代, 2021, 橋本遊廓の遊客と娼妓 : 遊客帳の分析から: 京都府立大学, 97–119 p.https://kpu.repo.nii.ac.jp/records/6263
・竹中, 友里代, 2023, 近代京都近郊遊廓における衛生環境と梅毒:橋本遊廓と伏見中書島遊廓の比較から: 京都府立大学, 155–174 p.https://kpu.repo.nii.ac.jp/records/2000018
・『京都府統計書』(京都府立京都学・歴彩館蔵、京都府立大学図書館蔵、国会図書館デジタルコレクション)https://dl.ndl.go.jp/pid/1451709/1/1
・瀧本,哲哉,2020,戦間期における京都花街の経済史的考察、『人文学報』第115号 (京都大学人文科学研究所)https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/252823/1/115_193.pdf