兵庫県高砂市に鎮座する生石神社(おうしこじんじゃ)は珍スポット界の横綱級(!?)とも言える場所。ここには、古代の謎に包まれたとんでもない巨大な石造物が存在します。それはまるで水に浮かんでいるかのように見える巨石、「石の宝殿(いしのほうでん)」。しかも、ただ大きい、不思議というだけではなく、この石の宝殿は、宮城県の「塩竈神社の塩竈」、宮崎県の「霧島東神社の天の逆鉾(あまのさかほこ)」と並び称される「日本三奇」の一つであり、古代から続く磐座(いわくら)信仰の対象でもある、非常に奥深いスポット。

この記事では、生石神社と石の宝殿がなぜこれほどまでに「珍スポット」として魅力的なのか、その謎と歴史、そして磐座としてのパワー、見どころをたっぷりとご紹介します!
息をのむ光景!「石の宝殿」との対面 – これが人の手によるものなのか?

生石神社の境内、鬱蒼とした木々に囲まれた階段を上っていくと、突如として目の前に現れる異様な光景に、きっと誰もが息をのむでしょう。それこそが、この神社の御神体であり、最大の見どころである「石の宝殿」です。

まず、その圧倒的な巨大さに度肝を抜かれます。横幅約6.4m、高さ約5.7m、奥行き約7.2m。そして推定される重量は、なんと約500トン!

数字だけ聞いてもピンとこないかもしれませんが、これは大型観光バス10台分以上に相当する重さ。
不思議な形ですが、その用途や製作者は不明


岩山からまるで巨大な豆腐か何かのように、この石の宝殿が切り出されています。形も非常に不思議で、後ろに三角形の出っ張りが見られ、綺麗な正方形ではなくブロックごとに段状になって滑らかに加工されているようにも見えます。明らかに人の手によって、背部の岩山から削り出されたモノですが、これが完成品なのか、それとも何かを造る途中だったのか、用途も含め謎に包まれています。材質は流紋岩質凝灰岩(竜山石)で、近くの竜山で採れる石材と同じものだということはわかっています。

石が浮いているように見えることから別名「浮き石」

そして、この石の宝殿をさらにミステリアスにしているのが、その「浮いている」かのような姿です。巨石の周囲は池になっており、その下部は水に浸かっています。そのため、水面の反射と相まって、まるでこの500トンもの巨石が水面にぷかぷかと浮いているかのように見えるのです。このことから「浮石(うきいし)」という別名も持ちます。
物理的に500トンの石が水に浮くわけはありません。池の水位が巧みに調整されているのか、あるいは底の部分で岩盤と繋がっているけれど水で見えないのか…諸説ありますが、その視覚的なトリック(?)が、見る者に強烈な印象を与えます。
この巨大さ、浮遊感、そして未完成(?)ゆえのミステリアスさ。目の前にすると、写真で見る以上の威圧感と、古代からの静かなエネルギーのようなものを感じずにはいられません。
日本三奇のひとつに数えられる石の宝殿
この不思議な石の宝殿は、古くから「日本三奇」の一つとして知られてきました。他の二つは、宮城県塩竈市にある塩竈神社の塩竈(しおがま)と、宮崎県と鹿児島県の県境、霧島山の高千穂峰山頂にある霧島東神社の天の逆鉾(あまのさかほこ)です。


塩竈は、常に水が満ちており、どんな日照りでも涸れず、どんな大雨でも溢れないという不思議な釜。天の逆鉾は、神話の時代に神様が突き立てたという伝説が残る矛。どちらも自然物に近い、あるいは神話に由来する「奇」ですが、生石神社の石の宝殿は、明らかに人の手が加わった巨大な「造形物」であるという点で、異彩を放っています。
その謎に迫る – 誰が、いつ、何のために?
生石神社は紀元前の崇仁天皇の時代に創建されたと伝わっています。ここでは石の宝殿を誰が造ったのか、その用途は何か等を風土記や神社に残る伝説から確認します。
石の宝殿は物部守屋が造らせた?

石の宝殿は奈良時代の715年頃に編纂されたと考えられる『播磨国風土記』(はりまのくにふどき)によると、聖徳太子の時代に物部守屋が造らせたという伝説も残っています。ただ記述には、史実と異なる部分もあるため伝説の域を超えません。
ただ、715年の奈良時代には既に石の宝殿があったということは確実です。石の宝殿はいつの時代から存在するのでしょうか。生石神社に残る『生石神社略記』によると、神話の時代に遡ります。
生石神社略記によると石の宝殿は神様の宮殿!?


生石神社のご祭神は、大穴牟遅(おおあなむち)=大国主命(おおくにぬしのみこと)と、少毘古那(すくなひこな)の二神。どちらも日本の国造り神話に登場する重要な神様です。そして、この二神と石の宝殿にまつわる興味深い伝説が「生石神社略記」に残されています。内容を簡単に要約するとこうだ。
大穴牟遅と少毘古那の二神が力を合わせ、「この国をしっかりと治め、平和を守るために、ふさわしい石造りの立派な宮殿を建てよう」と一夜にして石の宮殿(石の宝殿)を造ろうとした。しかし、工事の途中で、地元の神様(阿閇大神)が反乱を起こした。そのため、二神は、やむを得ず工事を中断して山を下り、多くの神々を集めて、反乱を起こした神々を鎮圧し、ようやく平和を取り戻しました。しかし、そうこうしているうちに、残念ながら夜が明けてしまい、宮殿を完全に造り上げることができなくなってしまいました。
つまり、石の宝殿は神様が建てた未完成の宮殿ということ。だから、不思議な形状をしているというわけか。地元の神様の反乱によって頓挫したという経緯はあるものの、国造りの神様でさえ完成させられなかった石の宝殿。この伝説によってさらに神聖で奥深いものにしています。
神代の昔大穴牟遅(おほあなむち)、少毘古那(すくなひこな)の二神が天津神(あまつかみ)の命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時、神相謀り国土を鎮めるに相応しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進められるも、工事半ばなる時、阿賀(あが)の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り、数多(あまた)神々を集め、この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことができなかったのである。時に二神のたまはく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠り、永劫に国土を鎮めんと言明せられたのである。
「大きなる石」の記憶―『播磨国風土記』生石神社を旅して― | 東城敏毅 | 日文エッセイ236https://www.ndsu.ac.jp/blog/article/index.php?c=blog_view&pk=1681382300c52cec1fc25c61291df17104b946eec8

目の前にある異様な巨岩に畏れを抱き、伝説を紐付けてしまう。石の宝殿はそんな常識を超えた存在感を放っています。
あのシーボルトも訪れた

この石の宝殿の謎は、日本人だけでなく、遠く海外から訪れた知識人の心をも捉えました。 江戸時代後期(1826年頃)に来日したドイツ人医師であり、著名な博物学者でもあるシーボルトも、この地を訪れているのです。彼は日本の自然や文化を精力的に調査し、その成果を『日本 (NIPPON)』にまとめましたが、その中で、この石の宝殿についても詳細なスケッチと共にその巨大さ、加工技術、そして何よりその目的不明な点について記録を残しています。
古代信仰の証「磐座」としての側面 – 石に宿る神聖なパワー

生石神社の石の宝殿は、ただ珍しい、謎めいているというだけではありません。ここは、古代からの信仰が息づく神聖な場所でもあるのです。そのキーワードが「磐座(いわくら)」です。
磐座とは、神様が宿ると信じられている巨大な岩や、神様が降臨する依り代(よりしろ)とされる岩のことを指します。日本には古来から、山や森、そして特徴的な岩石などを神聖なものとして崇拝する自然信仰、アニミズムがありました。磐座信仰は、その代表的な形の一つです。
生石神社の石の宝殿は、その圧倒的な存在感と神秘性から、まさに巨大な磐座として、古くから人々の畏敬の念を集めてきました。人の手が入っているとはいえ、その根源には自然の岩山があり、そこに神聖さを見出した古代の人々の想いが込められているのでしょう。
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運営理念は素晴らしいが怪しさ満点のヤバい公園
アクセス
- 住所:〒676-0823高砂市阿弥陀町生石171
詳しい場所をGoogleマップで確認する。 - 料金:有料100円(拝観料)小人50円
- 駐車場:有り
- TEL:079-447-1006