金魚の養殖で知られる奈良県大和郡山市。この地にはかつて、洞泉寺町遊廓という色街が存在しました。時代の流れとともにその名残は消えつつありますが、往時の華やかさと建築美を奇跡的に残すのが、「旧川本楼(きゅうかわもとろう)」です。
全国的に遊廓建築跡は持ち主の高齢化や老朽化、そして歴史的背景への配慮など様々な理由から取り壊されることが少なくありません。しかし、この旧川本楼は全国で唯一、行政(市)が関与し大規模な修繕を経て「町屋物語館(まちやものがたりかん)」として一般に公開されている、非常に珍しい場所です。

この記事では、そんな貴重な「町屋物語館」の内部や、人々を惹きつける魅力について詳しくご紹介します。
大正の粋と技!登録有形文化財「旧川本楼」の圧巻建築

町屋物語館、すなわち旧川本楼の最大の魅力は、何と言ってもその建築にあります。当時の最新建築技術の粋を集め、細部には凝ったつくりが随所に見られます。2014年(平成26年)には国の登録有形文化財にも指定された、まさに珠玉の建物。その細部に目を向けてみましょう。
遊廓最大規模を誇った木造三階建の威容

旧川本楼が建てられたのは近鉄郡山駅が開通した3年後、1924年(大正13年)。当時、この洞泉寺町遊廓内で最大規模を誇ったとされています。特筆すべきは、大正期に珍しい木造三階建てであること。建物の正面は、一階から三階までほぼ全面がガラス窓で覆われ、さらにその外側を細かな格子が取り囲んだ豪華な造り。
格子をよく見ると、一階、二階、三階で格子の幅や太さが微妙に違うことが見て取れます。これは意図的なデザインであり、単調さを避けつつ、建物全体の調和と格式を保つための工夫と考えられます。

想像してみてください。夜、この無数の格子窓の向こうに灯りがともり、その光が格子を通りまだらに怪しく漏れ出す様を…。それはまさに「不夜城」と呼ぶにふさわしい、妖艶で幻想的な光景だったのではないでしょうか。外からは中の様子が直接うかがい知れないようにしつつ、中からは外の気配を感じられる。そんな遊廓ならではの機能と美意識が融合したデザインと言えます。
内部へ潜入!入り口付近は写真見世スペース


旧川本楼では写真見世と言って、訪れた客は女性を直接見て選ぶのではなく、写真を見て指名する形式がとられていました。入り口すぐ左手の広い壁スペースはその写真が飾られたスペースで、右手は客引控室。当時写真が飾られていた壁の下には水が張られ金魚が泳いでいました。
接客に合理的な動線と仕様


写真見世のエリアを進むと、主に楼主が勘定を行ったであろう帳場と靴を脱いで上がる階段が位置します。興味深いのは、一つの建物の中でありながら向かい合うように階段が位置していること。普通の建物ならこんな無駄な造りはあり得ないですよね。この造りも遊廓ならではと言え、左の階段は娼妓用の階段でした。階段が位置する部屋は娼妓(ここで働いた女性)の待機スペースになっており、指名があれば娼妓がこの階段を昇り部屋を整え、客をもてなす準備をしました。旧川本楼に限らず、遊廓建築の多くが同じ建物に複数の階段がある造り、動線になっています。
こちらの階段は遊廓としての役割を終えた後、取り外されていましたが町屋物語館として生まれ変わった際に設置し直されました。

娼妓用の階段の脇に川本楼と記された羽織りが展示されていました。サイズが大きく男性用。これは楼主が着たもので脇には「増」の文字があります。活気あふれる姿で「客を増やそう」とチャキチャキ接客をしていた姿が目に浮かんできます。

上の写真は娼妓の待機スペースです。現在は左に展示パネル、右には旧川本楼の貴重な資料が展示されています。
凛とした佇まいの客間や窓

1階から階段を昇ると光がパッと差し込む丸窓と艶やかな木材にうっとり。「この写真は京都の鴨川沿いに佇む老舗旅館での一枚です」と言われても信じてしまうぐらい凛としています。

階段を昇ってすぐの娼妓が使用した髪結場からハート型の窓が並んでいるのが見えます。とても可愛らしいですね。こちらは魔除け的な意味合いで猪目模様としたか、西洋由来のハート型なのかよくわかっていません。旧川本楼が建てられた大正期には既にトランプカードが広く認知されており、LOVEの意味合いのハートのマークとして装飾された可能性もあります。
現代でも通用する電気・ガス設備



廊下を歩くと当時最先端の電気・ガス灯等が備えられた形跡が残っており、旧川本楼は大正時代の建物でありながら現在の暮らしと遜色がない超近代的な建物であったことがわかります。
女性が生活をした部屋で客の相手をした?

細い廊下に沿って3畳余りの小さな部屋が連なっています。カラオケみたいな造りですね。これら小部屋は2階3階と合わせて16室もあります。こちらも遊廓ならではの独特な造りです。旧川本楼は女性達がこの部屋で生活をしながら自分の生活スペースで客の相手をした居稼ぎ制の形式でした。
1930年(昭和5)発行の書籍『全国遊廓案内』に洞泉寺町遊廓の様子が記されています。そこには娼妓は全部送り込み制と記述がありますが、旧川本楼では自分の生活スペースで客をとる「居稼ぎ制」だったと考えられているそうです。送り込み制とは女性の生活スペースと、客を取る部屋が別のことを意味します。
郡山町洞泉寺遊廓
奈良県生駒郡郡山町字洞泉寺に在つて、関西線郡山駅で下車する。洞泉寺遊廓は、東岡遊廓よりは、建築に於ても、設備に於ても、其他あらゆる点に於て一歩を譲つて居る。貸座敷は目下十七軒あつて、娼妓は百五十人居る。奈良、京都、大阪地方の女が多い。店は写真店で、娼妓は全部送り込み制である。
遊興は時間制、又は仕切花制で、廻しは取らない。費用は一時間遊びが二円位で、仕切は、午前八時から正午迄は五円、正午から日没迄は七円、日没から一泊して翌朝七時迄が十二円である。台の物は附かない。附近には柳沢氏の城址がある。「菜の花の中に城あり郡山」と云ふ其角の句がある様に、附近一帯が菜畑である。郡山は日本一の金魚の産地である。
『全国遊廓案内』,日本遊覧社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1453000

全ての部屋の入り口上部にかまぼこ型で欄間が施されていたような空き空間がありますが、これは当時もこの状態で、主に通風孔の役割がありました。遊廓経営において病気の予防や対処は、重大な課題です。




その他にも2階から3階へ続く大階段と3階には宴会などもできる客座敷スペースが存在します。
各部屋に残る生活の痕跡
旧川本楼は遊廓としての役割を終えた後、下宿所へ業態を移行します。主に利用したのは近隣の高校の生徒。各部屋には、扉に女性のブロマイドが貼り付けてあったり、柱に南妙法蓮華経と油性マジックで書いてあったりして当時の生活痕跡が残っていました。


下の写真は便所。


楼主家族の生活スペースがある座敷棟

先ほどの本館から座敷棟へ続く階段を下ると、はじめに料理坊や手洗所等が目に入ります。部屋数に比べ手洗所が小さいですね。窓の装飾が凝っています。


料理坊を見上げると、3連のハート窓から明るい日差しが差し込んでいました。おそらくこれらの窓は調理で出る煙の換気や採光の役割があったのかもしれません。

働いた女性の名前が記された茶碗入れ

現在は帳場で保管されていますが、かつて料理坊に置かれていた「茶碗入れ」にはここで働いた女性達の名前が記されています。旧川本楼の娼妓達は「静香」「千代香」などの源氏名を使って働いていました。ただ、茶器入れには「さよこ」「みゆき」など源氏名ではない本名が記されており、仕事以外の場面等では女性達は本名で呼び合いっていたことがわかります。

贅の極み?家紋入りの浴室が存在する!


旧川本楼の建築の中でモダンな感性が凝縮されている空間が浴室です。浴室は天井が高く一面タイル張り、さらに天井には江戸時代は武家であった川本の家紋が立体的に施されています。現在は浴槽が埋め立てられその姿を確認できないのは残念ですが、それでも当時の華やかさとこだわりを感じることができます。

大正時代に浴室がある=今でいうと「自宅にホームシアター&サウナとプールがある」ぐらい凄いのではないでしょうか。この浴室を娼妓が使用したのかは不明ですが、妓楼の多くは楼主家族と生活空間は分けられていました。個人的には、この空間を娼妓が使用することはなかったのではないかと思います。
大広間から眺める中庭や裏庭、茶室




大広間は12畳の大空間となっており、書院造。掛け軸横の付け書院にも浴室と同様、川本家の家紋が施されています。部屋は豪華絢爛という様子ではないものの、左右に中庭、裏庭が位置し木の組み方が独特な障子や意匠から質実剛健な印象を受けます。
当時裏庭の一部には金魚が泳いでおり、トイレへ続く廊下はガラス張りの床が施されていました。今でも分厚いガラスの一部が残っています。
座敷棟の2階は楼主家族の生活スペースでした。立ち入りは禁止されています。

女性達の過酷な労働状況が偲ばれる遺構
1階や3階の一部の窓にはかつて鉄格子がはめられていた跡があります。遊廓と聞くと煌びやかな女性が働くイメージをもちますが、実際は実家の借金を肩代わりしたり、身売りしたりと様々な事情で流れ着いた女性が多かった。鉄格子は女性を逃さないために設けられていたのかもしれません。
さらに座敷棟奥には、洗浄室の遺構が残ります。これは、いわゆる「ビデ」で娼妓が客の体液を洗い流し、感染症や妊娠を予防するための空間でした。現在はコンクリートで埋め立てられてはいますが、劣悪な労働状況で働いた女性の姿を突きつけます。

京都府の橋本遊廓「旧大徳」に洗浄室の遺構が残っています。一見私たちがよく知る和式便器のようですが、少し違う。旧川本楼の洗浄室はどのような形だったのでしょうか。

貴重資料からその他遊廓と料金を比較

旧川本楼の1階には当時の料金表が展示されています。花代とは友興費を指し、時間によって料金が異なることが見て取れます。このシステムもその他遊廓と同様です。
1930年(昭和5)発行の『全国遊廓案内』に近隣遊廓の料金が記されています。旧川本楼の価格感はどうだったのでしょう。高い?安い?料金体系が複雑なため1時間遊びに限定して比べてみました。
都道府県 | 遊廓 | 料金 |
---|---|---|
奈良 | 洞泉寺町遊廓 (旧川本楼) | 1時間2円 |
木辻遊廓 | 1時間1円 | |
東岡遊廓 | 全て時間制。1時間遊びなし。 日没から12時まで7円 | |
大阪 | 飛田新地 | 1 時間 1 円 50 銭 |
枚方遊廓 | 1 時間 1 円 50 銭 | |
京都 | 祇園遊廓 | 1 時間 2 円、1 時間ごとに 1 円増し |
橋本遊廓 | 1 時間 1 円 |
料金表によれば旧川本楼の1時間遊びは2円とあります。その他遊廓と比べると1時間遊びは高めの値段設定。旧川本楼が位置する洞泉寺町遊廓はその他遊廓と比べると高級だったようです。
遊客帳から旧川本楼に通った客は若年労働者層

当時の遊廓は所轄警察署の鑑札(許可証)を受け厳しく管理されました。遊廓の経営者は客の住所や年齢・職業・担当した娼妓等を記載した遊客帳をもとに、経営状況等を申告する必要があり、当時の奈良県統計書(警察)等の行政資料や現存する遊客帳、娼妓名簿にその記録が残されています。
記録によれば、旧川本楼の主な客層は商業や農業に従事した若年労働者層。会社員は少なかった。また、働いていた娼妓の出身地は新潟県や三重県の女性が多かったことがわかっています。

先ほどの料金表を見ると、旧川本楼は他の遊廓に比べて1時間遊びの値段が高いのに、遊客帳で確認できる客層は比較的お金がない若年労働者層。その理由は何だったのか??建物の豪華さ??大阪へのアクセスの良さ??
旧川本楼は行政が関与する非常に珍しい遊廓建築
旧川本楼は大和郡山市が買い上げ、大掛かりな耐震工事、及び修理が行われ2018年2月から一般公開されています。実は行政(市町村などの自治体)が主体となって旧遊廓の建物を直接買い取り、NPOと連携しながら管理・運営しているという事例は大変珍しいこと。旧川本楼は町屋物語館として地域のコミュニティーセンターの役割があり、カルタ大会やひな祭りのイベントが開催されています。また、観光情報センターとして大和郡山市の街づくりに活用されています。
大阪府飛田新地の「鯛よし百番」が国の登録有形文化財に指定はされていますが、あくまでも行政が文化的価値を認めた事例で、所有、運営は民間。他にも名古屋市の旧中村遊廓の複数の建物が「名古屋市都市景観重要建築物等」に指定はされていますがこちらも保存に繋げる意図を示すことに留まっています。
旧川本楼(町屋物語館)のように、遊廓跡を街づくりに活用しようとした事例が存在しました。道後温泉(松山市)の「旧朝日楼」です。しかし、市が補助金を出したものの、「公娼制度の礼賛に繋がる」といった批判や地元の反対などもあり、計画は頓挫し、建物は2007年に解体されました。行政が関与しようとしたものの、その歴史的背景から合意形成が難しかった事例です。

旧川本楼では常駐する町屋物語館ガイドの方が丁寧に解説をしてくださります。しかも無料。3階にはカフェスペースも存在します。ホットコーヒーが100円。安すぎ!