奈良県橿原市にある巨岩「益田岩船」は、その巨大な姿と宇宙船のような不思議な形状から、古くから人々の注目を集めてきた巨石遺跡です。一体、この岩船は何のために造られたのでしょうか?儀式に使用された?それとも古墳の一部?はたまた、もっと別の目的があったのでしょうか。益田岩船の使用目的に関して様々な説が飛び交い、今もなお謎に包まれています。写真とともに詳しい内容をお伝えします。
益田岩船までの道のりと詳しい場所
益田岩船は住宅街に囲まれた小高い丘に位置しています。小学校や子ども総合センターに続くカラーロードの道中に益田岩船への入り口があり、その道中の道路には緑色をした岩船が描かれています。
地面に描かれた益田岩船を見ると亀の甲羅が左右にくっついたような形状で真ん中には二つの穴が空いています。下部には格子状に線が刻まれとても不思議な形状をしており、人間のシルエットが横に描かれています。
地面に描かれた益田岩船から見上げると階段が。ここが入り口です。ここから少し歩きます。
階段を登り切ると、林道を進みます。虫除け対策が必須で、動きやすい服装をおすすめします。入り口から10分程進むと益田岩船に到着します。
益田岩船の特徴
斜面に沿うような形で益田岩船は位置しています。岩の下部を観察すると格子縞模様に岩が区切られていることが確認でき、縦横と均一性があることから明らかに人為的な物であることがわかります。
案内板が設置されていました。案内板によると益田岩船の大きさは、東西に約11m、南北に約8m、高さは約4.7m。重さは推定800トンと記されています。かなり巨大だ。
別角度に回り込んで岩を観察すると不時着した宇宙船のような不思議な形状をしています。
上部には二つの方形の穴が空いています。2つの穴の間隔は約1.4mで2つとも横幅が約1.6m、深さ1.3mとその大きさは等しい。こちらも明かに人の手が加わっていることがわかります。
この岩は花崗岩です。岩の中でも花崗岩は加工が難しいとされており、格子縞模様に彫り上げるには相当な技術と人手が必要です。また益田岩船は急斜面に位置しています。沢山の人が集まって作業するには明らかに非効率で、加工した岩を傷付けずに移動させるには相当な労力が必要だと想像できます。
急斜面に位置するこの場所で加工をしなければならない意味があるように思いますが、なぜこの場所に益田岩船が位置しているのか。使用目的がなんなのか、学者の研究をもってしても明かにされていません。
益田岩船が作成された目的は?
益田岩船の詳しい使用目的は不明です。しかし、江戸時代の旅行雑誌的な資料に岩船に関する記述が見られたり、周辺の歴史遺物との深い関連が見られたりすることから、さまざまな見解や説があります。ここでは益田岩船の使用目的に関する幾つかの説と個人的見解を記入します。
貯水池作成の記念碑説
江戸時代に刊行された『大和名所図鑑』には益田岩船は平安時代に造られた灌漑用の貯水池「益田池」の築造を記念して弘法大師・空海が建立した石碑の台石として紹介されています。
早稲田大学図書館古典籍総合データベース 『大日本名所図会 第1輯 第3編 大和名所図会』(大正8年)https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=大和名所図会
上部の穴は石碑を差し込むための穴ということでしょうか?
しかし、肝心の石碑は現存していないと言います。解説板にもこの説が記入されていますが、何故、側面に模様が刻まれているのかよく分かりませんし、益田池の完成は825年と伝えられています。益田岩船の加工法から推測するに制作は7世紀(600年〜)ごろだと考えられているので、益田池の完成と制作年代が合わず、個人的にはあまり納得ができる説ではありません。
古墳説
益田岩船から500mほど南東に牽牛子塚古墳という古墳が存在します。牽牛子塚古墳は巨石をくり抜いて造った2つの玄室を持つ特殊な古墳で、横口式石槨(せっかく)という形状をしています。
益田岩船はその石槨を建造しようとして途中で放棄された物。つまり、現存する牽牛子塚古墳の失敗作ではないかと言う説です。側面の模様は、石を古墳に使用するため整形しやすくするためのものだと考えられています。
<参照>
橿原市公式HP
橿原探訪ナビ史跡 牽牛子塚古墳(明日香村)https://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_sekaiisan/sekaiisan/kouseiisan/kengoshizuka.html
益田岩船を改めて観察してみると側面に裂け目があり、上部の穴に貯まった雨水が漏れ出ている様子があります。確かにこれでは隙間が発生して古墳としての役割には適していません。
ちなみに牽牛子塚古墳は花崗岩よりも軟質で加工しやすい「凝灰岩」が使用されています。花崗岩では上手く加工できなかった失敗を活かして、「凝灰岩」を使用したのでしょうか。
ただ、個人的な感想としては横穴に玄室を設ける形式の古墳なのに、なぜ縦の状態で穴を掘っているのか?加工をしやすいから縦の状態で掘ったにしても、800トンもある益田岩船を今の状態から横倒しにする手間がエゲつないように思うのでこちらの説も完璧には納得できません。
ゾロアスター教徒のための拝火台説
これは松本清張『火の路』で唱えられている説です。この小説では「ペルシャ人が飛鳥京を訪れ、ゾロアスター教を伝えた」「益田岩船はペルシャ人が残した石造物」等と大胆な推理が展開されています。
「そんなわけないだろ」とツッコミを入れたくなる話ではありますが、7世紀頃にインドを始め中東のペルシア一帯から多くの文化人や宗教家が来日していたことが日本書紀に記されています。ゾロアスター教はペルシア一帯で栄えた宗教です。また、2016年10月に平城宮跡から、ペルシャ人とみられる「破斯(はし)清通」という役人の名前が書かれた8世紀中ごろの木簡が出土していたことが、奈良文化財研究所の調査で明らかになりました。
平城宮にペルシャ人役人 – 名前記した木簡が出土/平城宮跡 8世紀中期 奈良新聞 2016年10月6日 http://www.nara-np.co.jp/news/20161006085811.html
したがって、「ゾロアスター教徒のための拝火台説」の可能性は0ではないように思います。東大寺の二月堂で行われる「お水取り」も一説にはゾロアスター教を源流としていると言う説もあります。
サライ 源流はなんと古代イランのゾロアスター教!奈良・東大寺二月堂「お水取り」の謎に迫る(2)https://serai.jp/tour/44963
以上3つの説を紹介しました。その他には天文台説や火葬墳墓説等もあるようです。
アクセス
住所:〒634-0051 奈良県橿原市白橿町8丁目20−1
駐車場:なし
営業時間:年中無休
駐在する管理者はいません
まとめ
益田岩船。想像する以上に大きな岩で迫力がありました
何でこんな物が造られたのか・・・?形が本当に謎!マイナースポットではありますが、歴史浪漫溢れる、ミステリアスで魅力的な場所でした。史跡好きや古代好きの方はもちろん、どんな方でも楽しめる場所だと思います!
最後までご覧いただき、ありがとうございました!!